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ジェームズ・アワー

ジェームズ・アワー関係図
 続きの部分は、ジェームズ・アワー氏の半生を中公新書『海の友情』からまとめたものです。
 ここには書いていませんが、戦中の海軍軍人に比べて名を知られる事のない海上自衛隊の幕僚、また戦中派の米海軍人の戦後の動きなどが分る、非常に面白い本でした。
 日本では、アワー氏は防衛省の談合問題などでちらりと名前が流れ、そのまま忘れ去られるか、悪い印象をもったままで終わってしまいそうです。しかし、彼と日本の関係はただそれだけで語れるものでもありませんし、それはもったいないものだと思います。


 ミネソタ州セントポールで、ドイツ系カトリックの家庭に生まれる。
 マーケット大学に進学する際に、父の勧めでROTC(予備仕官養成プログラム)の海軍版に応募。父や教師の勧め、見学の際に海兵隊少佐から良い印象を受けた事などがあったようだが、本人曰く「途中で止めなかったのは、艦艇実習でどんなに時化ても船酔いにならない体質と分かったのが理由の一つ」との事。

「大学卒業から日本での勤務」
 大学卒業後、せっかく海軍に入ったのだからと海外行きを希望する。教官から、「掃海艇ならば、卒業後すぐの少尉が乗っても艇長、副長に次ぐ艇内第三位の地位が与えられる」と勧められる。この時、海外に配備されていた掃海艇は長崎県佐世保基地にしかなかったため、必然的に日本行きが決まる。
 1963年に、掃海艇「ピーコック」に着任して22か月勤務。中尉に昇進し、6か月間、ロードアイランド州ニューポート基地の駆逐艦乗組員専門長仕官養成学校で教育を受ける。66年5月に駆逐艦に乗って横須賀に戻り、駆逐艦「ディヘイブン」のオペレーション・オフィサー(船務長)を務める。67年12月に大尉に昇進して、掃海艇の艇長になるために本国に帰国する。

「海軍から大学院へ」
 1968年、リンドン・ジョンソン大統領が海軍艦艇の大幅削減約束したため、艇を降りる事となる。
 海軍を辞めて大学院に進み、民間人として再出発しようとしていたアワーだったが、海軍はハーヴァード大学とタフツ大学が共同で運営する国際関係論専門学校、フレッチャースクールへの進学を勧める。60年代に、マクナマラ国防長官を中心とする民間人に戦略戦術をかき回された海軍は、内部から専門家を養成するのに熱心だった。
 この大学院の勉学の中で、エドウィン・ライシャワー教授の講義を受け、自分が3年半を過ごした日本という国についてのまとまった知識を得る。
 アワーは修士論文のテーマに、戦後占領期における米海軍の対日政策を選ぶ。この調査の中で訪れた国立公文書館で、朝鮮戦争において日本の掃海艇が実戦に出動したという公式記録を発見する。
 この発見を元に修士論文を完成させたアワーだったが、ライシャワーは新発見に驚き、日本に行ってさらに調査を行い、戦後日本海軍の成立をテーマに博士論文を書く事を勧めた。

「調査のため再び日本へ」
 1970年7月、フレッチャースクールの学生として来日したアワーは、赤坂にあった米軍将校専用の山王ホテルを宿として調査に入る。
 海軍作戦部長ズムワルト海軍大将からの調査協力依頼に海上自衛隊は応じ、アワーに対して海上自衛隊発足に向けて極秘裏に動いていたY委員会の議事録なども開示した。
 この調査の過程で、アワーは多くの日米海軍関係者と出会い、逆に日米海軍関係者もアワーを通じてお互いの交流を深めていった。
 このとき増岡一郎は、自分の上司の船田中衆議院議長を紹介している。

「政治顧問として」
 調査の終了後アワーは、1971年7月から2年の間、調査の中で得た日本への理解と人脈から、日米海軍のパイプ役として、ジュリアン・バーク(アーレイ・バークとは赤の他人)在日米軍海軍司令官の政治顧問に就任。
 その最初の仕事は、ミッドウェーの横須賀母港化だった。これには、増岡を通じた船田衆議院議長とのパイプが円滑な交渉の役に立った。

「副長から再び日本へ」
 1975年、ミサイル駆逐艦パーソンズの副長を務めていたアワーだったが、海上自衛隊の幹部学校への留学生に選ばれる。
 アワーは9月から12月まで鎌倉のイエズス会の語学学校で日本語を学び、そのあと一年間、海上自衛隊の幹部学校に留学した。

「ペンタゴンへ」
 1978年1月、アワーは第7艦隊フリゲート艦「フランシス・ハモンド」の艦長に就く。
 79年1月に艦を降りた後、後の駐日大使、マイケル・アマコスト国防次官補代理に誘われ、79年4月から国防総省の「日本担当課長」として働く。
 81年、カーター大統領から国防を重視したレーガン大統領への交代に伴い、ペンタゴンの力は一層と強力なものとなった。この時、国防長官はワインバーガー、アジア太平洋担当国防次官補がアーミテージ、日本課長がアワーというラインが確立した。また、このころにワインバーガー国防長官の補佐官を務めたのがパウエルである。
 アワーは83年に、規定により海軍を退役する事となっていたが、アーミテージは非常に上手く機能していたラインがなくなる事を嫌い、周囲の反対を抑えてアワーを文官として再び同じ職に留任させた。この結果、アワーは88年8月まで、日本担当課長を務める事となった。

「アワーの提言」
 1990年8月、イラクによるクウェート侵攻が始まる。日本は多国籍軍展開を支持し、いち早く経済制裁に踏み切ったものの、その後の動きは鈍かった。91年1月に多国籍連合が武力行使に踏み切った後も、中東から多くの石油を頼っていながら人的貢献もせず、日本が行ったのは経済力からは決して多いとはいえない拠出金の支払いのみだった。
 このことは湾岸戦争が短期間に多国籍軍側の勝利に終わったため表面化しなかったものの、アメリカ国内には日本に対する不信感と失望感が広がっていた。日米同盟の重要性を感じていたアワーはこのことに危機感を覚え、日本が何らかの目に見える行動を起こす必要性を感じていた。
 91年2月28日、日米安全保障に関するシンポジウムでカール・フォード国防次官補から「戦闘地域に多数の機雷が敷設されている」という情報を得たアワーはすぐさま日本に掃海艇の派遣をすすめる文章を書いた。これが、3月31日の産経新聞の正論に掲載された。
 アワーはこの記事をコピーしたものを、日本の友人多数に送り、日本でも掃海艇派遣を検討する動きが加速した。
 この動きを受けて自民党の若手代議士である船田元が、アメリカの国防関係者と人脈を持つ木村英雄と共に、米国外交国防局側との事前協議のためにワシントンに飛び立った。最初は掃海艇派遣に懐疑的だったアメリカ側も、交渉の中でアワーや木村の提言を聞き徐々にその可能性を感じるようになった。
 この時、船田のワシントン滞在を知った米国海軍、特に海自や第7艦隊とゆかりのある関係者が多く集まった。それは彼の父、船田中が日米安保の重要性を理解し、在日米軍海軍の為に活動していた事への感謝の印だった。

「アワーのその後」
 アワーは国防総省を退職した後、ヴァンダービルダ大学の日米センターの所長に就任した。
 ここでアワーは論文執筆の他に、教壇に立って指導に当たっている。1つは一般の生徒を対象とした日米関係を中心とした東アジアの国際関係の講義。もう1つは、NROTCの学生を対象とした海軍史の講義である。日米センターは、日本からの留学生も多く受け入れ、その中には防衛省、経産省、警察庁の若手官僚もいる。
 その後、冷静終結後の90年代、日米関係が経済問題などで危機を迎える度に、アワーは日米同盟の重要性を提言するアメリカ側の専門家として積極的な発言している。

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2008.08.21 | | Comments(0) | Trackback(0) | 軍事

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